FCエスペリオ


esperio FCエスペリオ FC Esperio

■1908年/フランシスコ・ララインによって創立
■本拠地/イスパル
■ニーニャス・ゴダ・ミオス・スタジアム(12450人収容)
■優勝4回/国王杯2回/銀行杯1回

■エンブレム

造船で栄えたイスパルを表す帆船の両脇には、木の生えた石塔。エスペリオの略称ESPの図案化した組み合わせはクラブ創立当初から使用されている。

■概要

1908年、造船技術で栄えていたイスパルで、実業家フランシスコ・ララインによって創立された。ララインの祖先は18世紀にイスパルへ入植したバスク系スペイン人の移民とされており、イスパルもまた、長らくスペイン商船の停泊地として栄えた歴史があった。

スペインを本拠地にビジネスを展開していたララインは07年に帰国後、スペインで熱狂したサッカークラブ創立を画策。イスパルの労働者達によるサッカー同好会であったイスパルFCを買収し、チーム名を18世紀当時のイスパル領主の名からエスペリオとした。同時期、ララインはスペインでもクラブを買収しており、エスペリオとの間で選手移動が活発だったという。

11年のリーグ戦開始前までは目立った活動が見られなかったが、10年にはプレ・リーグ戦(5クラブによって試験的に行われた)に参加している(4位)。11年のリーグ開始直後は8位に終わったが、ララインは自ら構築した人脈によってスペインから多くの選手を獲得。17年にはスペイン系フィリピン人のFWペレスゴ・ラウル(フィリピン代表)を獲得。18年には現役スペイン代表だったMFダヴィド・ジャスコリオを獲得している。一方で、そうした補強とは裏腹に成績は芳しくなく、戦前は一度も優勝を果たしていない(唯一の好成績は21年に銀行杯準優勝)。しかし、草創期のサシャーユサッカーが身体能力やパワープレイに頼っていたのに対し、早くからパスやテクニックで対抗しようとしたクラブの一つであった。

戦後、47年にララインの破産などもあって、経営権はスペインの食品会社へ売却された。リーグ再開直前の54年にはオランダの造船会社へ再び売却されている。消滅の危機を何度も乗り越えながら再開したリーグへ参加したが、一貫してスペイン系の選手を中心に据え、監督もスペイン人が多かった。 だが、58年に最下位に沈むと徐々に方針を転換。即戦力を獲得して、戦力に合った戦術でチームを成長させていく方針を採った。特に、下部組織選抜入団テストを開始した61年入団の選手はその後の中心選手となり、64年のリーグ戦初優勝、国王杯準優勝に貢献している。

その後は国王杯や銀行杯で優勝したものの、リーグで安定した成績を残すまでには至らなかった。70年代前半は61年入団選手が躍動したが、監督の采配ミスや勝負弱さが露呈し、リーグ最高成績は2位であった。その後はポストプレイヤーを2人置いたり、超守備的布陣を敷くなど長い低迷期に突入、 79年には2部降格も経験した。

82年に優勝を数多く経験したFWフェト・リッカマス、名将ケズ・フィドーが加入するとチームは変革。勝負強さを身につけて85年に二度目の優勝を飾ると、以降、史上2クラブ目となる3連覇を達成した。この当時のチームはエスペリオ史上最高の布陣とされている。 リッカマスの引退後は再び優勝から遠ざかっているが、80年代以降、再びテクニックとパスを重視する展開がチームの中心に据えられるようになった。

フィドーは82年から02年まで20年間にわたって1部リーグで指揮を執り続け、これはサシャーユ史上最長記録である。